聖心女子大学の奥行きを知る
研究者として横顔をご紹介するとともに、研究の意義や楽しさを語ってもらいました。聖心女子大学の魅力をより深く知るために役立てていただきたいと願っています。
研究テーマ | : | 日本古代史、とくに奈良時代・平安時代の役所ではどのように仕事をしていたのかについて調べています。 |
---|---|---|
著書 | : | 『受領と地方社会』山川出版社 『新日本古典文学大系 続日本紀』(共著)岩波書店 『御堂関白記全註釈』(共著)思文閣出版 |
『忘れられた日本人(岩波文庫)』
著者:宮本常一
出版社:岩波書店
『最長片道切符の旅(新潮文庫)』
著者:宮脇俊三
出版社:新潮社
『忘れられた日本人』は1950年代、『最長片道切符の旅』は1970年代の広い意味での紀行文で、どちらも旅先の人と人との交流を通して、当時の時代観を非常に良く伝えています。バーチャルな体験になれた若い世代に是非、何かに触れ合う実感を読み取ってほしいですね。
高校時代の「日本史」や「世界史」は今に伝えられる過去の出来事を“動かしがたい事実”としてそのまま暗記する科目だった。そこでは古(いにしえ)の人々の姿や暮らしをイメージする、という意味でわずかばかりの想像力を求められることはあっても、何かを構築していく創造力はほとんど必要ない。史学科の佐々木恵介先生はそんな高校までの古いスタイルと決別し、豊かな想像力と創造力が決め手となる新しい歴史学との出会いを強く勧める日本古代史の研究者だ。
「よく言われることですが、歴史的な記録(史料)というのは時の為政者や権力者に都合良く書かれたものも少なくありません。そこで歴史学の研究では、残された史料の史料批判という基本的な作業をもとにして、そのうえで何を信じて何を読み取るか、ということを積み重ねていきます。史料の欠けた部分については、類推したり、想像したりする必要もあるのです。高校の教科書に書かれているのは一応、そういうプロセスを経た“確からしいこと”ですが、大学ではその一歩手前のところ、つまり自分自身で“確からしいこと”を見つけていくのだと考えてください」。
佐々木先生によると、資料批判の精度は意外と高く、いわゆる歴史ミステリー系のテレビ番組で取り上げられるような「それまでの常識を覆す新発見」はそうそうあるわけではない。ただ、それを差し引いても、高校の世界史や日本史は一夜にして認識が変わる可能性を秘めた、ある意味、最も疑わしい科目だ。それを暗記科目だと思い込んでいること自体に、疑問を感じるべきなのかもしれない。少なくとも歴史学の第一歩は教科書を開くことではなく、「信じるに足る何か」を探し出すことなのだ。
佐々木先生の研究室の本棚
日本古代史の中でも、ここ数年は奈良時代や平安時代の朝廷で行われていた書類の決裁や会議、人事などの業務、いわば“お役所仕事”を中心に研究しているという佐々木先生。「そもそも奈良時代には企業というものがありませんから、朝廷というのはほとんど唯一の組織だったわけです。当時の日本は中国や朝鮮半島の文化をどんどん取り入れていて、政治の仕組みなどもそれを日本風にアレンジしたものと考えられます。そうしたなかで、当時すでに名刺の原型のようなものが登場していますし、接待や根回しなど日本企業の伝統的な特徴がこの頃から生まれている可能性もあるわけです」。
当たり前の話だが、今、知りたいことが残された史料に書かれているとは限らない。佐々木先生に言わせると「大抵は一番知りたいことがわからない」。それが歴史学のジレンマであり、面白さでもあるのだろう。知りたいことが書かれた史料がどこにもない時、何を頼りに真実に近づくか。実はここでも想像力が試される。
「たとえば普段話している言葉、すなわち口語がそのまま記録された史料はずっと後の時代にならないと現れません。少なくとも江戸時代以前に残された記録は、ほぼ全てが文語体ですから、当時、人々が実際に話していた言葉は誰も知らないわけです。そこで役に立ったのはイエズス会の宣教師が作った日本語の辞書。これは口語をそのままローマ字で表記したもので、当時の話し言葉がかなり正確に記録されています」。
つまり、日本人の言葉を調べるのに最も貢献したのは外国人の残した記録ということになる。もちろん、それは後世の人々に話し言葉を伝えるためのものではない。誰も教えてくれない歴史をたどるにはこうした逆転の発想も必要なのだ。
佐々木先生の研究資料「宮城図」
歴史学が何に役立つのかと考えると、読んで字のごとく「歴史に学ぶ」あるいは「教訓を生かす」という発想に落ち着く。しかし、もともと不確かな要素を内包した歴史的事実はそれ自体、あくまで参考資料に過ぎない。学問としての歴史学にはその事実検証の結果に関係なく、歴史と対峙する上で欠かせないロジックやマインドがあるはずだ。
「強いて言うなら、残されたものから新しいイメージを創り出す創造力と、史料が書かれた当時の様子を論理的にたどる想像力、やはりこの二つでしょうね。暗記科目としての日本史が根強く頭にある人は、歴史学が決まった答えのない学問だと言うと違和感を覚えるかも知れません。でも、人文科学は“人間”を扱う学問ですから、結論を出すまでのプロセス自体が一つの成果と考えてもいいんじゃないかと思うのです」。
少し前は新撰組、昨年は天璋院篤姫、そして最近は戦国武将と、ドラマなどのブームに影響されて妙にマニアックな関心を持つ学生もいるそうだが、それはそれで興味・関心が強い分、歓迎すべきことだという佐々木先生。ただ、歴史を学問として扱う以上、そこに人文科学としての基本的な方法論は必要だと語る。「非常に大切なのは一つの事象、あるいは人物について、資料を徹底的に集めたうえで、意見の違ういくつかの論文を比較し、どちらの立場をとるのか自分で決めることです。いろいろな見方を比較検討していく能力も、歴史学が培う力の一つですから」。
小学校の頃、中央公論社が出した全26巻の『日本の歴史』を読んで歴史学をこころざし、他の学問への応用がきかないと言われた文学部で大学院まで進み、博士課程を満期退学してから30代半ばまで無職生活。今風に言えばフリーターかニートのはしりだった。「ゆえに説得力は乏しいかも知れませんが」と佐々木先生は前置きをしながら言う。「文学部は卒業後の進路が心配だと言われますが、そんなことはない。大学時代は何の役に立つかなどはあまり考えず、やりたいことをやった方がいいのです」と佐々木先生。ちなみに「史学専攻の先輩には、教員はもちろんのこと、それこそ「お役所」やマスコミで活躍している人たちもいますから、決して将来の制約はありません」。こちらはかなり説得力のあるお話だ。